エンディングノートは「自己の棚卸し」:仏教の視点から自己を見つめる

終活の象徴とも言えるエンディングノート。その役割は、自分の死後に家族や大切な人が困らないように、財産、葬儀の希望、医療の意思、そして感謝のメッセージなどを記録しておくことです。

一見、これは実務的で合理的なタスクのように見えます。しかし、仏教の深い視点から見ると、エンディングノートを作成する行為は、単なる事務的な死の準備を超え、自己という存在を深く見つめ直す、究極の自己の棚卸しであると捉えることができます。

「私」という執着の棚卸し

仏教の根本的な教えの一つに「無我」があります。これは、永遠不変の自分という実体は存在しないという真理です。私たちは日常、自分の名前、職業、所有物、記憶、感情といったものに「私」という確固たる実体を見出し、強く執着しています。

エンディングノートは、まさにこの「私」が作り上げてきた人生の集積を記録する作業です。

エンディングノートに書き記す項目、例えば財産の記録は、私たちが過去に費やした努力や欲求、そして執着の形跡そのものに他なりません。また、人間関係の記録は、「私」を取り巻いてきた縁の物語を具体的に示し、趣味や希望の記録は、「私」が人生でどのような満足を得ようとしてきたかという行動の履歴を物語っています。

しかし、この「私」への執着こそが、苦悩の根源であると仏教は説きます。

これらの項目を一つ一つ書き出す過程で、私たちは自分が何に執着し、何を自分の一部だと強く思い込んできたかを、客観的に確認することができます。エンディングノートが完成したとき、私たちは自分の人生が執着の塊であることを知り、一方で、それらを自ら手放し整理する勇気が試される場でもあることを知るのです。

「諸行無常」から生まれる感謝の確認

エンディングノートには、自分の希望や、愛する人へのメッセージを書き残す欄が必ずあります。これは、仏教における「諸行無常」、すなわち、この世のすべては常に変化し、同じ状態にとどまるものはないという真理と深く結びつきます。

私たちは、家族や友人との関係が永遠に続くと無意識に思いがちです。しかし、やがて来る別れの時、そして自分のいのちが尽きる時を明確に意識して振り返ると、すべてが一瞬の輝きであったことに気づきます。

エンディングノートで家族へ感謝の言葉を綴る行為は、この「無常」の中で出会い、共に過ごすことができた縁への深い感謝を確認する作業です。

例えば、「あの時、助けてくれてありがとう」といった感謝の言葉は、今、その人が存在していること、そして自分自身がその恩恵を受けていることが、決して当たり前ではない「有難い(ありがたい)」事実であると再認識させます。

人生の終わりを意識することで、「今」という瞬間の尊さが浮き彫りになり、残された時間の中で、本当に伝えたい感謝の念を言葉にして形に残す。この作業こそが、仏教が教える「今を大切に生きる」という教えの実践となるのです。

「利他」の心で仕上げる最期のデザイン

エンディングノートの多くの項目は、自分の死後、残された人々が円滑に物事を進めるための情報提供です。これは、仏教の精神である「利他」、つまり他者の利益のために行動するという菩薩の心の実践に他なりません。

自らの死後の準備をすることで遺された家族の「苦」を少しでも和らげようとする配慮は、自己への執着を超えた深い慈悲の現れです。

この利他の実践は、具体的な項目に現れます。たとえば、葬儀の希望を記す際、それは単なる自分の好みの表明ではなく、家族の経済的・精神的な負担を考慮する配慮となります。また、財産の整理を明確にすることは、死後の争いを未然に防ぎ、家族間の平和を願うことにつながります。そして、メッセージを書くことで、遺された人々は故人の思いを受け取り、深い悲しみの中に温かい励ましを得るのです。

エンディングノートの作成は、自己中心的な視点から離れ、自分の死という出来事が、他者にどのような影響を及ぼすかを想像する利他の訓練なのです。

終わりに:エンディングノートは「生きた証」

エンディングノートは、死後の準備であると同時に、自分がこの世で何を成し、誰と繋がり、どのように生きたかという生きた証を綴るノートです。それは、過去の自分を見つめ、現在の執着を手放し、未来の他者への配慮をもって締めくくる、過去・現在・未来の三世を貫く仏教的な自己の棚卸しの場なのです。

書き終えたエンディングノートは、単なる書類ではありません。「無我」の境地へと向かい、「無常」を理解し、「利他」の心を実践した、人生という修行の尊い成果物だといえるでしょう。